ベッヒャー・シューレ(ベッヒャー夫妻によって先導されたドイツ現代写真の一潮流)、ゲルハルト・リヒター、森山大道、そして「写真批評」と題された四章から構成された本書において、著者は写真を論じると同時に、写真を論じるという(あまたの「写真評論」が通常、覆い隠したまま通り過ぎている)批評の立脚点をも問い直す極めて真っ当な議論を提出している。
それは例えば、《写真はレフェラン(指向対象)の芸術である。しかし、写真論の困難は、レフェランを純粋にそれだけで論じることの困難でもある。我々はかならず、写された世界を論じるか、写真の写し方を論じてしまうのだ》(p.22)、《写真が、現実を表象しているという前提はもはや成立しえないし、たとえそこに拘ったとしても、現在の写真表現の分析のためには有効であるとは言えないだろう。素朴なリアリズムを越えて、我々は技術的、認識論的な前提とは独立に写真の本質にあるのは何か、と問わねばならない》(p.16)という認識にも明らかだ。
そうした論点の提示から出発してベッヒャー・シューレのドイツ=ヨーロッパ的アイデンティティの政治を浮かび上がらせ、その上でさらに写真の「写真性」を抽象し、一見、写真とは無関係に見えるリヒターの「アブストラクト・ペインティング」の分析を経て、森山の写真作品とそれらを架橋する論述は刺激に充ちた論述となっている。そして状況論的な側面を持つ「写真批評」は、それぞれが短いテクストながらも写真と写真批評の現在を正確に測量したものと言えるだろう。
